菅さん、こんにちは。本日はよろしくお願いします。
まずは、改めて、菅さんが取り組んでいらっしゃることを教えてください。
こんにちは。今日はこちらこそよろしくお願いします。
私は、今、栃木県佐野市で「NPO法人ちもり」を運営して、「フリースクールここあっと」や「さのプログラミング教室」の活動に取り組んでいます。
「みんなに居場所がある社会」というのが私のWillです。
フリースクールやプログラミング教室の他にも、リコーダー演奏を行ったり、子どもが主役になるイベントやワークショップの運営、子どもを中心としたまちづくりを研究する地域の団体などでも活動しています。
インタビューを実施したフリースクール内にはプログラミングに使用するPCや、「教科書」となる書籍が並んでいた
菅さんは前職は小学校の教員だったと伺いました。どのような経緯で、今の活動にたどり着いたのでしょうか。
はい。小学校の教員を17年やってから退職して、今の仕事にたどり着きました。
教育に携わるようになったきっかけは、大学で教育学部に入学したことでした。
もともと教師になることはまったく考えていなかったのですが、「教育学部なのだから最低限、小学校の教員免許くらいはとるか」という、そんな気持ちで教員免許を取得しました。
とはいえ、やはり教師になるつもりはなくて、大学生活はオーケストラのサークルにのめり込み、夜通し音楽の話をして、授業には行かず。留年までしました。(笑い)
本当になりたかったのは、プロのリコーダー奏者。
大学卒業後はフリーターをしながら、リコーダーをプロの方のもとで2年間学びました。
レストランのウェイターや、塾講師をしながら食いつないで頑張りましたが、大学を卒業してから2年間活動した結果、プロになることは諦めることになりました。
自分が持っているものや経験、つまり、教員免許とリコーダー、これらを活かせる場は小学校だ、ということで、小学校教員になりました。
リコーダーの良さは「とっつきやすさ」と語る菅さん。楽器自体も比較的安価で手に入り、誰でも「吹けば鳴らせる」しかし「奥が深い」のだという。
言われてみれば確かに、小学校ではリコーダーを吹く機会が多いですよね。小学校教員としての思い出を教えてください。
小学校の教員は全部で17年間務めました。
もちろん最初の1,2年間は初めてのことに戸惑うこともありましたが、3,4年目くらいからは、だいたいのことはそつなくこなすことはできるな、と思えてきました。17年の間には、音楽主任や学年主任も務めて、教師として色々な経験を積みました。
指導の仕方というかスタイルとしては、教室にいる子どもを「管理」するタイプ、言う事はきいてもらうよ、という。
しかし、ある年に、その指導スタイルが全くうまくいかなかったんです。
子どもたちを傷つけてしまった、嫌な思いをさせた、という苦い思い出が今でも残っています。
子どもたちとの信頼関係がない状態でした。
ちょうどその時に応募していた内地留学への派遣が決まって、宇都宮大学で学ぶ機会を得ました。
半年間通う中で「どんなやり方がいいのだろう」と自問自答した結果、子どもを同じ方向に向かわせるやり方自体を変えなければという結論に至りました。
子どもの力を借りて、子どもたちが成長していく。
私がこどもに指導するのではなくファシリテートしていく、そんなやり方に挑戦したいと思いました。小学校に戻って実践するなかで、子どもがどうしたいのか、、どう感じるかを聞きながらやっていく、そんなやり方に変えていきました。
そのことによって、子どもとの信頼関係を築けるようになっていきました。
バリバリの「管理教育」タイプから、子どもたちが主導するような教育方針に変わったのですね。
はい。しかし、そのことによって、今度は、私と、他の教師の間での教育方針の違いが明らかになってきました。
私は、自分なりのクラスの「つくりかた」を実践していましたが、年度が変わると、クラス替えや担任替えがあります。
そうすると、子どもたちは、それまで私が担任するクラスでは自由にやれていたことを、今度は他の先生のところでは自由にやれない、ということがしばしば生じるようになります。
当然、他の先生方からすると、「菅先生、全体に合わせてくださいよ」ということになります。
そうなったときに、ああ、それなら私じゃなくてもいいのではないか、と思ってしまったんです。
私が教師でいることの意味、本当にやりたい教育の姿を考えたとき、もう学校の先生は続けられないな、と思いました。今の学校教育の中で力を発揮するのは難しい、という気持ちでした。
「来年やめます」と宣言して、最後の1年は教員をやりながら、プログラミングスクールに通って、エンジニアになる勉強をしました。
小学校の先生、というと定年まで勤め上げる人が多そうなイメージですが、退職してからの人生設計みたいなものはあったのでしょうか。
なにかこの仕事をするぞ、というのを決めて退職したわけではありませんでした。ですので、退職してからは、貯金が減っていく日々でした。
そのような中で、「栃木県新規事業創出プログラム」で「Will」に出会ったのです。
なんだか、運命的な出会い、というか、波乱万丈な物語ですね。
はい(笑い)
ただ、自分としては、「プログラミング教室を開こうかな」「そうなったとき、他に起業した人とつながっているとなにかいいことがあるかもしれないな」という軽い気持ちで参加しました。
たしか、当時暇そうにしていたのをみた妻に「こんなのがあるらしいよ?参加してみれば?」と言われたのがきっかけだったのではないかと思います。
そこから「Will Connectivity」を受講するなかで、最初にご紹介いただいた菅さんのWill「みんなに居場所がある社会」を紡ぎ出されたのですね。
はい。他にもう一つ、テーマとしていることがあって、それは「好き」が生かされる社会の実現、ということです。
小学校で教員として長く働いた経験から、たくさんの子どもが、小中高、そして大学に行く、それが普通だとされるモデルのようなものをみてきました。
しかし、当然のことですが、みんながみんなそれで幸せになれるとは限らないんです。
今の教育、というか世の中全体の風潮として、成功するために「不得意なものを潰して、なくしていく」というやり方が多いのですが、それによってアベレージな(平均的)人間をつくっても、重宝されるとは限らない。
それだったら、好きなことをとことん伸ばしたほうが、その人自身も生きやすいし、社会もその人の能力や特性を尊重できると思っています。
そもそも、人生には限りがあるので、苦手なことをやっている暇はない。できないことは人に任せる、自分は得意なことをやる、それでいいじゃないですか。
人は十分、助け合って生きていけると思います。
「みんなに居場所がある社会」「”好き”が生かされる社会」、いずれも長年に渡って教育現場で子どもと向き合ってきた菅さんだからこそたどり着いたWillですね。
はい、しかし、私自身の経験の中では、小学校教員としての体験に加えて、大学時代のオーケストラサークルでの日々も大きな影響を与えていると思います。
というのも、実は私は、生まれてすぐ親の仕事の都合で引っ越しを繰り返していて、小さな頃から、自分にとっての居場所がない子どもでした。
自分がやりたいことをどんどんやれる、これこそが自分の居場所だ、と思える場所に出会ったのは、大学に入学して入ったオーケストラサークルだったのです。
一日中、夜も、そして毎日、大好きな音楽のことだけ考えていられる、仲間がいる、そう初めて思えたのは、大学のオーケストラサークルでした。
大学生じゃなくなった今、ないなら自分で居場所をつくればいい、そのような決意から打ち立てた「Will」でもあります。
「ちもり」は「赤城神社」の敷地の中にある。教員をやめて地域の清掃ボランティアとして神社に関わったことがきっかけで、今でも縁が続いているという。
菅さんのWillによって、今後、佐野市をどのような地域、街にしていきたいですか?
うまくいかなくてもいい、安心してなんでもできる、そんな場をつくっていきたいと思っています。
子どもが自分の好きなことに熱中して、のびのびと過ごせる、そんな街になれば、佐野市はもっと発展すると思います。
菅圭(すが・けい)。1976年生まれ。NPO法人「ちもり」代表理事。プライベートでは1女2男の父。